2019年12月 |
10 古典派~ロマン派の時代 |
作曲家の年代です。
バッハ、ヘンデルの後、ハイドンです。 それより少し遅れてモーツアルトが生まれています。 若くして亡くなっている方が多い。
☆ヴォルフガング・アマデウス・モーツアルト
モーツアルトはオーストリアのザルツブルグで生まれました。9歳で天才的にピアノを弾けて神童と呼ばれました。 父親が音楽家で、モーツアルトを売り込もうと、オーストリアを始め色々な国の貴族達のパーティなどで演奏させて、生活の糧にしていました。
当時の移動は馬車です。 もの凄く揺れる馬車での移動は子供にとってかなり苦痛な物だったと思われます。 その彼も20歳ぐらいになると、もう神童ではなく凄い音楽家なのですが、謂わば普通の人です。
父親と音楽的な感覚の違いから別れて作曲家として苦労したようです。 先輩格のハイドンにも相談したようです。
モーツアルトの青きドナウなどのウインナーワルツはとても軽やかで、と思ったのですが、これはヨハンシュトラウスでした。 モーツアルトはアイネ・クライネ・ナハトムジークが有名です。 それに、きらきら星変奏曲。 これなどバイオリンの教則本の初めに出てきます。
今でこそクラシックとか言って、とても固い音楽のように思っているのですが。全ての時代がそうですが、作った時には新しい曲です。 今までと違う新しい感覚で曲を作って行く、いわば、今の歌謡曲と同じで、うけなければそれで終わり。 あちこちで演奏されればお金が入って、それで生活できて行く。
当時は「会議は踊る」があった頃で、上流階級ではダンスが盛ん。 その時に演奏したり、それ用の曲を作ったりの仕事だったと思われます。 この「会議は踊る」の時には一般民衆も道で踊り回ったとか、、
(会議は踊るは、停戦協定で各国の王族などがウイーンに来ているのですが、会議を有利に進ませるために、ダンスと女・を利用して、頭をそちらに向けさせて、領土分割を有利な方向に向けさせた実話です)。
モーツアルトは31歳で亡くなっています。若いです。
この方辺りが古典派から前期ロマン派あたりです。
ここで
作曲家達の生まれた場所です。
ドイツやオーストリアが多いです。 オーストリアのの地図もしっかり描けば良かったのですがウイーンやザルツブルグが音楽の都です。
☆ ルードヴィッヒ・ヴァン・ベートーベン
はボンの生まれで、家庭環境の関係で音楽は独学で学んだに近かった。 一時、宮廷でオルガンやヴァイオリニストとして雇われた。 モーツアルトの弟子になったが母の死により中断。
19歳で聴覚の異常に気がつきだした。 ウイーンに移りハイドンからも学び、ピアニストとしても活躍し、 誰からの援助も無しに、演奏や作曲で食べて行ける職業音楽家の一号となった。
ですから、自分の気に入った音楽を作曲できたのかも知れません。
運命や田園、悲壮、その他あまりにも有名な曲が沢山あります。
音楽、特に交響曲など、自然の描写を音で表していることが多い。 静かに川の流れる音、小鳥のさえずりや、時には雷鳴など。 その気で音楽を聴くとなんとなくその情景が浮かんできます。
私が好きなのは「エンペラー、皇帝」です。 ナポレオンをたたえているのかと思ったら、そうでも無いようで、逆に彼の住むウイーンをナポレオンの軍が包囲して、ベートーベンの家の近くにも砲弾が落ちたそうです。
シェーンブルン宮殿もナポレオンに取られ、ウイーン城(今市電の線路のあるループは城壁の跡)も攻め落とされ皇帝フランツも逃げたと言うような事がウキペディアに書いてあったので、この「皇帝」はナポレオンのために作曲したのでは無いはずです。
さておき、私はあまり交響曲は聴きません。 それは家庭で聞くには音響が大きすぎて喧しいのと、長いので
ベートーベンは完全に耳が聞こえなくなった。 それでも作曲し続けた。
頭の中だけで音を想像して、それも短音では無くオーケストラの色々な楽器の音を考えながら、、、
出来た曲をオーケストラに演奏させて、チェックした。 耳が聞こえないのに分ったようです。 凄い。
☆ フランツ・シューベルト
はウイーン近くの村で生まれた。 今でこそ有名だが、当時はあまり知られないままに一生を過ごした。
父にヴァイオリン、長兄にピアノを習った。 14人兄弟の12番目なので長兄とは凄く年が離れている。 音楽一家だったんだ。
8歳頃から音楽関係の学校に行き音楽理論も習っている。 この頃にはベートーベンは運命を書いているし、ハイドンもまだ存命して活躍している。
18歳で「野薔薇」作曲、 22歳で「鱒」作曲、25歳でベートーベンとも知り合っている。
一番上の年表で分るように、有名な音楽家は、少しずつ年齢は違うが同じ時代に生きていたのだ。 だから、師弟関係や交友があったようです。
25歳で「未完成」作曲開始、しかしそのまま進まなかったのだろう。
28歳で「アベマリア」作曲。 交響曲も幾つか作っている。
30歳で死の床にあるベートーベンを見舞いに行ってます
31歳 交 響曲第9番完成。 そして、この年に死去。
たった31歳です
この人は、金に縁が無かった。 金を気にしなかった。 作曲などでいくらか小銭が入ったらすぐに使ってしまった。 友人達とカフェでしゃべりまくったり、金が無くても何とかなるもので、宵越しの金は持たないという江戸っ子のような暮らしぶりだったようです。
でも、仲間達は彼を愛したのでしょう、「シューベルティア」と言う集まりを作って、文学を語ったり、歌を歌ったり楽器を鳴らしたり、していたようです。
そこで、ハイネの詩を呼んで、それがシューベルトの歌曲(リート)に生きていたのです。
私が行っている高齢者の学校の授業で
この方は、某音大の教授をしていた声楽家の方でドイツリートが専門の方です。 ドイツの歌のプロです。
この方が、シューベルトの「鱒」を歌ってくださいました。 ドイツの詩人シューバルトの詩です。
目の前、1~2m程の所です。 凄い迫力です。 本物のテノール歌手ですから。
「鱒」
In einem Bächlein helle,
Da schoß in froher Eil
Die launische Forelle
Vorüber wie ein Pfeil.
ドイツ語の発音が凄い。 ドイツ語はわからないけれど、迫力が凄い。 段落の後に「ツッ」という無声音が聞こえそれが、ドイツらしい。 近いのでそんな音まで聞こえる。 Forelleが鱒です。
この歌の日本語訳が、目の前に投影されていて、歌っているのはドイツ語ですが、感情の付け方で、なんとなく歌っている歌詞の部分が分かる。 さすがはプロ。 (ドイツ語の歌詞は投影されていなかった)
投影されていた日本語訳はこれです。
澄んだ小川で泳ぎゆぐ鱒(ます)
力強く矢のように過ぎていく
私は岸辺でくつろぎながら
元気な魚を眺めてた
釣竿かついだ漁師が一人
魚の動きをじっくり見てる
こんなに澄んでる川の中では
針に魚はかかるまい
しびれを切らした釣り人は
小川を掻き混ぜ にごらせた
すると釣竿ぴくりと動き
罠にかかった哀れな鱒は
釣られて陸で跳ね回る
単に釣り人が、鱒を釣っただけのようですが、この鱒とは娘のこと。
釣り人は男で、娘をつり上げた、と言うのがこの詩の本当の意味です。
そう思って、読んで下さい。
綺麗な川に鱒が泳いでいる。それを私は川岸から見ている。
水が綺麗すぎて、鱒は釣れない。 こんなに水が綺麗なら鱒は針に気がついてしまう。 そこで、釣り人は水を引っかき回して濁らせて、鱒の目をくらませて、まんまと鱒を釣り上げた。
男が汚い手を使って、娘をだまして自分の物にした、という詩です。
この詩には後があって、こんな事をしてはいかんよという説教じみたところがあるそうですが、シューベルトはそこは省いています。
そういえば「野薔薇」も同じようなもので、野薔薇とは娘のこと、触るとトゲを差すぞと言っているのを、、、、先は知らない。
その後
この方は、現役のプロの歌手の方。 教会音楽が専門分野だそうです。
「アベマリア」を歌ってれました。 もちろんドイツ語で。
有名な曲です。 とても綺麗な声で、もちろん感情も手を抜かずにきっちりとホールで歌うように、、
この後、男の先生が立ち上がって、皆さん一緒に「アベマリア」を歌いましょう。 日本語の歌詞は投影されているので分かりますが、楽譜が無いので、どう歌ったら良いのかアベマリア以外の部分は分からない。
それでも、40人ほど全員立ち上がって、ぶっつけ本番で「アベマリア」の合唱。
いやー、大した物です、上手な人が居るのでそれらの人に先導されて皆上手に一発で、感情まで付けて歌いました。 その後、プロの二人は声を出さずに我々だけで歌ったり、シューベルトを満喫しました。
歌手の方々、有り難う御座いました。
すべて、ドイツの歌だったので、ドイツ旅行を思い出して、感激しました。
授業では、ショパンやリスト(男前のピアニスト)なども習いましたが、省略。
、
|
|
|
|